社団法人 新潟馬主協会 副会長 吉田晴哉(追分ファーム代表)
2013年1月17日
1951年、千葉県成田市の隣町、富里村にある千葉社台牧場(現社台ファーム)において私は産まれました。幼少期はその牧場で育ちましたが、私が小学校に入学する時に東京へと引っ越して、その後も東京で中学・高校・大学へと進学しました。1974年、大学卒業と同時に銀行に就職をしましたが、1年半後に親や兄たちに反対されながらも退職をし、社台ファームに入社しました。3年間はケンタッキーにあるフォンテンブローファーム・社台ファーム千葉牧場・北海道の牧場と父の持つ全ての牧場を巡るように勤務しました。その後に、東京事務所に勤務することになり、かねてから構想を持っていたクラブ法人の立ち上げに力を注ぐことになりました。
1980年、長い時間をかけて準備を行っていたクラブ法人で初めての募集をかけることとなり、それに携わっていた私は、この事業を自らのライフワークとして行っていこうと強く考えるようになっていました。
1993年8月、これまで社台ファームを牽引し続けた父吉田善哉が他界したことで、これまでの社台ファームを三兄弟で分割することになり、私は社台ファームの採草地である追分町向陽(現安平町)の丘陵地帯、そして十数頭の繁殖牝馬を引き継ぐことになりました。その引き継いだ繁殖牝馬たちは白老ファームに預託しておりました。
父は生前から「孫の正志は牧場向きのタイプだから牧場をやらせろ。」とよく私に言っていました。確かに息子の正志は、物心をつくころになると、夏休みや冬休みという長期休暇を利用しては必ず牧場に滞在して、牧場スタッフと共に厩舎作業をしていました。ふとある時、幼い息子と彼の将来を話す機会があり、「将来は何をやりたいんだい?」という私からの問いに対し「将来は牧場をやりたい。」という力強い言葉が返ってきました。その言葉を聞いた時、私は父から引き継いだ追分の土地に牧場を開場することを固く決心しました。
牧草地として利用していた土地を放牧地にするためには、牧草地用の草から放牧地用の草へ切り替えることが必要で、まずは草地改良の作業を始めました。それと同時に草地を分割して仕切るように牧柵をまいて放牧地を形作り、そして厩舎を建設する工事も着々と進行してきました。工事が行われている間は、宿泊する場所すらもなく、毎日千歳市内の滞在先から車を走らせて牧場にやってきては、プレハブの事務所の中で多くの図面を眺めながら検討を重ねました。窓の外では時間の経過とともに、放牧地の草も緑色が鮮やかになり、厩舎の工事も日に日に進んでいき、徐々に牧場として完成されていく姿を見つめていました。
1995年秋、完成したばかりの新しいイヤリング厩舎に、春に白老ファームで誕生し、離乳したばかりの当歳馬が移動してきました。記念すべき第一期生となる95年産駒の中に、ダイナサルーンの95(後に毎日王冠、北九州記念、愛知杯という複数の重賞を制するトゥナンテ)が含まれていたことは、開業したての私や牧場スタッフにとっては大きな自信となりました。
翌年に繁殖厩舎の完成を控えた1995年秋、私はアメリカで行われていたKeenelandのセリに出向いていました。「これから先、牧場の根幹を支え、そして繁栄できる血統馬を手に入れたい。」そのような強い思いを持って参加したセリで、不出走ではありましたが牝系を遡ると名牝Fall Aspenに辿り着く1頭の牝馬に注目をしました。それが、後に追分ファームでその牝系を広げ、孫の代で桜花賞馬レジネッタを排出することになるマクダヴィアとの出会いでした。
1999年、徐々に勝ち星を伸ばしながら牧場としても成長を感じている中、1頭の栗毛の牡馬が誕生しました。ゴールドアリュールと名付けられたこの馬が、2002年に牧場にとって初めてダービー出走を成し遂げてくれました。その後ジャパンダートダービーを快勝したことで、牧場に初めてのG1のタイトルをもたらしてくれました。続く2003年にはフェブラリーSに優勝し、初の中央G1のタイトルまでも獲得してくれました。
2005年は、ハットトリックが金杯に優勝し、幸先の良いスタートを切ると、シックスセンスが皐月賞でディープインパクトの2着になるなど活躍をし、秋には再びハットトリックがマイルCSに優勝して、続く香港マイルで初めての国際G1にも勝利してくれました。2006年にはソングオブウインドが菊花賞に優勝して初めてのクラシックタイトルをもたらしてくれました。
2008年、創業時からその血脈を育ててきたマクダヴィアの牝系から誕生したレジネッタが桜花賞に優勝しました。その優勝の陰で、息子の正志が色々と携わっていたこともあり、牝系の成長と息子の成長を同時に感じることができ、とても感慨深いものになりました。
開場して13年が経過したこの時期、現役を引退した牝馬や定期的に海外で購買していた繁殖牝馬が増えてきたことで、繁殖厩舎の必要性に迫られていました。そこで2008年秋に追分の近隣にある土地に春日分場を開場することにしました。この時にすでに1世代の産駒数が50頭近くまで増えており、今後も増加傾向にあることが予想されました。そのため、近い将来にこれまでは社台ファーム・ノーザンファームにお願いしていた調教部門を自らの手で行わなければならないと感じるようになっていました。ちょうどその時、幸運にも追分ファームから車で15分ほどの距離にある東早来に220haの広大な土地を取得する機会を得ることが出来たことで、後に追分ファームリリーバレーと名付けられるこの土地に調教場を造ろうと決心しました
雪が多いこの地方で、天候に左右されないように調教を行いたいと考え、600mと1000mの周回コース、そして栗東TCの32mという高低差よりも大きな36.8mという高低差を持つ1000mの直線坂路コースもすべて屋根を付けて全天候型にすることにしました。「スピードを出さずに負荷をかけること」をテーマにして、周回コースの敷材はダートにしてその厚さにも変化をつけています。坂路コースは敷材をウッドチップにして、4%勾配の区間を長くすることで負荷を十分にかけられるように配慮しました。
2010年11月のプレオープンの際には2棟・60馬房であった厩舎も現在では4棟・120馬房にまで増えましたが、それでもこらから先の生産頭数の増加に伴って今後もさらなる増築を検討しています。
これらの調教施設はリリーバレーの一部分のみを使用しており、その他の大部分は放牧地として利用するため、すでにイヤリング厩舎の建設も行っています。数年のうちに追分ファームで生産したすべての当歳馬をリリーバレーのイヤリング厩舎に収容できるようにしたいと考えています。
2012年、フェノーメノがクラシック戦線で活躍をし、念願であるダービーのタイトルにハナ差まで近づきました。ですが、この着差こそが私やスタッフに与えられた大きな宿題なのかもしれません。牧場を開場して17年という月日が流れ、当時は想像もできなかったほど短時間のうちに成長を遂げることが出来たのは、兄たちの協力があったからであると思っております。リリーバレーが完成したことによって追分ファームは生産から調教までのすべての過程を自ら行えるようになりました。今後も息子の正志と共に馬を生産し、自らの調教施設で調教を行い、あのハナ差を逆転して競馬界を盛り上げられるような馬を生産・育成・調教できるように邁進していきたいと考えております。
追分ファーム: http://oiwakefarm.jp/