協会だより

夢を追って

新潟馬主によるリレーエッセー

私と馬との半世紀

社団法人 新潟馬主協会 常務理事 松岡雅昭
(株式会社キョウエイアドインターナショナル代表)

2014年4月21日

私と競馬の出会いは、今から50年前にさかのぼります。それは昭和39年、東京オリンピック開催年の川崎競馬場での競馬観戦だったと記憶しております。今振り返れば、当時小学1年生だった私が、このときの馬との出会いから、父の競走馬に対する情熱が、競馬とかかわり、馬と我が家がこれほどまでに長いお付き「愛」になるとは想像もしていませんでした。

常務理事 松岡雅昭氏

その当時、父は川崎競馬場所属の故井上宥蔵調教師と親しくなったことをきっかけに、次第と競走馬の魅力に取りつかれていきました。小さな広告会社を経営していた父は、その後地方競馬馬主免許を取得し、競走馬を購入しました。その時から私達家族の馬人生がスタートして長い先のゴールへと向かい始めました。地方競馬から中央競馬にも強い魅力を感じ始めた父は、その後中央競馬馬主免許を取得し、自らの足で北海道日高生産牧場を中心にサラブレットの買い付けと馬の勉強が本業以外の日課になりました。そして数々の生産牧場をめぐる中での1人のオーナーブリーダーとの出会いが、徐々に馬主から牧場経営への夢が広がるきっかけになりました。

その方は父が生前大変尊敬しており、北海道伊達市で生産牧場を経営されていた「伊達牧場創設者故浅野国次郎」と言われる方でした。昭和33年タイセイホープ号、昭和34年ウイルディール号にて皐月賞制覇と、同一クラッシックを連覇された、日本の競馬界でも数少ない馬主です。浅野オーナーは、その後もウイルディール産駒の自家生産馬ダテテンリュウ号にて、調教師故星川泉士管理のもと菊花賞を制覇されました。浅野オーナーより星川調教師をご紹介いただいた我が家は、浅野ファミリー、星川ファミリーと、三世代に続く大変長いお付き合いになりました。

中央競馬の馬主になった時から、いつかは「日本ダービー」を獲ってみたいとの父の思いは、馬産地へと足を向け、「名門牧場」と言われた老舗から小さな家内牧場まで研修の日々でしたが、父自身が生産牧場経営の第一歩として、昭和42年に北海道日高門別町厚賀に「インターナショナル牧場」を誕生させました。開業当時の北海道日高周辺は、私の記憶では厳しい中にもサラブレット生産に努力する家族愛みたいなものが感じられ、牧場関係者の方々は皆一生懸命馬と向き合っていたように思います。しかし当時は高度経済成長第2期の始まりでもあり、競走馬生産頭数はその後10年間でそれまでの約2倍の1万頭を超え、馬主にとっては牧場の選択も重要な時期でもあったように思います。

ワールドクリーク(H11トパーズS)

ワールドクリーク(H11トパーズS)

桜花賞インターグロリア

桜花賞インターグロリア

桜花賞キョウエイマーチ

桜花賞キョウエイマーチ

天皇賞秋キョウエイプロミス

天皇賞秋キョウエイプロミス

牧場開業時の父は、オーナーブリーダーへと新たなスタートを切り、「日本ダービー」の夢に向かっていました。それからは馬の購入、育成、繁殖牝馬の管理等を牧場スタッフと打ち合わせすることが毎年毎月のライフワークになり、週末は競馬観戦、週初めは調教師からの結果報告と次走への打ち合わせ、競馬開催中の日には必ず全国どこかの競馬場に行くことが当たり前の生活でした。当時は関東、関西の競馬場は敷地内に厩舎があった為、レース前は厩舎廻り、レース終了後は預託厩舎のご自宅にお邪魔しての祝勝会、反省会、勉強会、そして調教師の奥様の手料理による夕食会が楽しみな時代でした。しかし1970年代に入りますと関西には栗東トレーニングセンター、関東には美浦トレーニングセンターが開業され、調教師とのコミュニケーション方法もその後随分と変わりました。

いつかは日本ダービーに出走して制覇することを夢見て競馬をはじめた家族に、昭和47年に初めてその夢が叶うチャンスと悪夢が同時にやってきました。競走馬名インターグッド号は、府中の直線残り1ハロンの先頭集団に取り付き、優勝馬コーネルランサー号を交わしたかと思ったゴール直前で差し替えされ、長い写真判定の末敗れました。クラッシック競走制覇の道のりは容易いものではない、と夢が悪夢に転じたときでした。

それから5年後の昭和52年に、福永洋一騎乗のインターグロリア号にて桜花賞を制覇し、我が家に初めてクラッシック獲得の夢が実現しました。少々残念なことは、生産牧場が北海道様似高村牧場でしたので、自家生産馬ではなかった事です。クラッシック初制覇の余韻もさめやまない翌年、昭和53年に武邦彦騎手騎乗のインターグシケン号で菊花賞を獲ることができました。生産牧場は偶然にも、タイセイホープを生産した北海道浦河辻牧場でした。2年連続でクラシックを獲得するには、生産者をはじめ、調教師を中心とした関係者一丸の努力が必要ですが、昭和47年のダービーの教訓から、レースの展開やコース取り、レース中の不利の有無など、そして最後は多少の「運」に結果が大きく左右されることを感じました。

父は昭和47年から3年間、昭和51年から7年間、JRA最多賞金獲得馬主の称号をいただきましたが、インターナショナル牧場は開業から15年以上が経過しても、自家生産馬はクラッシック競走に出走すらできず、オーナーブリーダーとしてのクラッシックレース制覇の夢は遠く厳しいものでした。

さらに15年が経過した平成9年、自家生産馬によるクラッシック制覇達成をついに実現しました。牧場開業から30年、父を中心とした牧場スタッフ、家族の夢を松永幹夫騎手騎乗のキョウエイマーチ号が、桜花賞制覇という形で叶えてくれました。実はキョウエイマーチ号は、生まれて間もなく骨端症という脚部不安を抱え、競走馬としての将来を危ぶまれていたのですが、「運」が味方してくれたのだと確信しています。

私も中央競馬馬主として30年以上のキャリアがありますが、15年前から競走馬でなく、乗馬にも関わりを持つ機会を得ました。その当時、私の甥達が乗馬を始め、その影響で私の息子、さらに私の家内まで乗馬を始めたのは、父の馬への情熱が原点にあると思います。

私は父の名言『我が家は迷門』をいつも心の中で感じ、馬にも仕事にも向き合うことにしています。競馬を始めた当時から、父は『我が家は「迷門」だから』と言っていたことを忘れません。それはおそらく、父が馬主免許を取得した当時は馬主のステータスは相当なものであり、名オーナー、名門牧場があったからこそのジョークであったと思います。

10年ほど前に父が亡くなり、その年にインターナショナル牧場の看板をおろしました。長年にわたり競馬サークルに居ると、沢山の方々との出会いと別れがありますが、必ずどこかに縁があり、偶然や必然という不思議な関係があることを何度となく感じてきました。ただ1つ言えることは私達ファミリーにとって、競馬と馬は生活の一部であり、家族のコミュニケーションツールとして切り離すことのできない大事なものであるということです。そして私自身も仕事を行う上で、馬との関わりが日常生活での活力源になっていることだけは間違いないと言えます。今は自分の所有馬の出走があれば、出来る限り家族とともに競馬場に足を運びます。私は小頭数馬主なので、それが大きな楽しみでもあります。そしていつかはクラッシックに出走できるような馬に巡り合えることを夢見て、これからも馬とのお付き「愛」をさせてもらうつもりです。

現在の牧場経営は、3年間単身でフランス、アイルランドの牧場で武者修行をした「馬大好き人間」の甥っ子が後を継ぎました。北海道ひだか町清畠にて「アイズスタッド」と名称も新たに、先の長いゴールではありますが50年目のリスタートを切りました。私には、甥っ子が思い描いた夢が実現出来るか否かはわかりませんが、馬を愛する心と信念、そして継続する気力があれば、競馬の神様は必ず見捨てることなく「運」を分けてくれると信じ、応援しています。

最後になりましたが、私の50年間を振り返って、思い出の馬を購入馬、生産馬、小分け馬からそれぞれ1頭選びました。1983年 ジャパンカップ2着『キョウエイプロミス号』、1997年桜花賞馬『キョウエイマーチ号』、2000年 ドバイワールドカップ6着『ワールドクリーク号(弟スマートファルコン)』です。この子たちは私に競馬の奥深さと興奮と喜びを与えてくれました。

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